津田助広/ホームメイト
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「津田助広」(つだすけひろ)は大坂新刀の刀工として3代にわたって活動した刀工のこと。なかでも有名なのが、初代津田助広である「ソボロ助広」と、全国の刀工に影響を与えた独特な刃文「濤瀾乱刃」(とうらんみだれば)を創始した「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)の2人です。特に2代目である津田越前守助広は、「大坂新刀の三傑」にも数えられ、新刀を代表する名工。津田助広のルーツとなるソボロ助広と、「絶世の名人」とまで称された大坂新刀を代表する名工・津田越前守助広について紹介します。
津田越前守助広と初代津田助広

大坂新刀
「津田助広」は、江戸時代、大坂(現在の大阪府)において3代にわたって活動した「大坂新刀」の名工です。
3名の津田助広のなかで、最も名が知られているのは津田助広一門の2代目となる「津田越前守助広」。
「井上真改/真改国貞」(いのうえしんかい/しんかいくにさだ)、「一竿子忠綱」(いっかんしただつな)と共に「大坂新刀の三傑」に数えられる津田越前守助広は、江戸で活躍した名工「長曽祢虎徹興里」(ながそねこてつおきさと)と並び新刀の横綱とも称されている、大坂新刀を代表する名工です。しかし、その人気ぶりから贋作も数多く作刀されました。
津田助広のルーツ「ソボロ助広」
初代津田助広は、「ソボロ助広」と称される刀工で、津田越前守助広の養父とされる人物。播磨国(現在の兵庫県南西部)国府庄津田村に誕生し、大坂へ上ったのちは初代「河内守国助」(かわちのかみくにすけ)の門人となります。

丁子乱れ
初代河内守国助は、新刀の祖とされる京都の名工「堀川国広」(ほりかわくにひろ)の門人で、大坂新刀の創始者となった人物。
堀川国広は相州伝(そうしゅうでん)であったものの、河内守国助はもともと備前伝(びぜんでん)を修めていたことから、ソボロ助広は備前伝の丁子乱れ(ちょうじみだれ)の刃文(はもん)を得意としました。
ソボロ助広と呼ばれるようになった由来にはいくつかあり、一説には、服装に頓着せずいつもボロを着ていたからというものがあります。真相は不明ですが、そんな噂が独り歩きをしたことで、ソボロ助広を差料(さしりょう:自分が腰に差すための日本刀)にすると貧乏になるという迷信までできました。
しかし、実際はソボロ助広の作刀は鋭い切れ味を誇り、江戸時代後期に編纂された「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)や「古今鍛冶備考」(ここんかじびこう)では最上級の切れ味を誇る「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)に列せられる名工として高い評価を得ているのです。
その他、「ソボロ」の由来として、添名に「そ不路」と切られた物があったからというものや、住居が「ソホロ小路」にあったからというものがあります。
津田越前守助広の生涯
2代目である津田越前守助広は、1637年(寛永14年)摂津国打出村(現在の兵庫県芦屋市)に誕生しました。初代津田助広の門下に入り、養子となりますが、1655年(承応4年/明暦元年)に師を亡くすと、19歳の若さで2代目を襲名。

大阪城
1667年(寛文7年)には、当時の大坂城代「青山宗俊」(あおやまむねとし)に藩工として召し抱えられました。同時期に活躍した大坂新刀の名工・井上真改とは合作で作刀もしており、これは津田越前守助広が仕えていた青山宗俊による命であったと考えられています。
津田越前守助広は、生涯で1,670振以上もの作刀がある多作な刀工です。また、懐宝剣尺と古今鍛冶備考において、「大業物21工」に選出されています。
大業物とは、日本刀の切れ味を4等級に分けた際の上から2番目にあたる、切れ味が特に優れた日本刀を作刀する刀工のこと。さらに、「新刀辨疑」(しんとうべんぎ)などの著書で知られる刀剣研究家「鎌田魚妙」(かまたなたえ)には新刀第一の刀工として「絶世の名人」と称されるなど、時代を経ても高い評価をされています。
津田越前守助広の作刀の特徴
作風と津田越前守助広が創始した刃文「濤瀾乱刃」
津田越前守助広の作刀には、打刀(うちがたな)や脇差(わきざし)の他、槍や薙刀(なぎなた)、鉞(まさかり)などが存在。打刀や脇差は鎬造り(しのぎづくり)で、バランスの良い上品な刀姿をしており、小杢目肌(こもくめはだ)の詰んだ潤いのある地鉄(じがね)に細かな地沸(じにえ:地鉄にある、細かい粒子のこと)が付いています。

濤瀾乱刃
津田越前守助広最大の特徴と言えば、津田越前守助広が創始した、新々刀(しんしんとう)期に至る全国の刀工に影響を与えた独特の刃文「濤瀾乱刃」です。
濤瀾乱刃とは、大海原の波が寄せては返す様子にも似た、やわらかな起伏のある華やかな刃文のこと。大坂新刀を代表する津田越前守助広の濤瀾乱刃は小沸本位(こにえほんい)で、沸付いた玉焼(たまやき:飛焼[とびやき]の一種で、地肌にある丸い刃文のこと)が現れています。
初期は師であるソボロ助広に倣い、丁子乱れの刃文を焼いていましたが、次第に丁子乱れの頭が丸くなり、互の目乱れ(ぐのめみだれ)に変化。そこから、最終的に腰開きの大互の目乱れである、濤瀾乱刃となりました。また、直刃(すぐは:直線的な刃文)においても優れた作品が多く残されています。津田越前守助広の直刃は中直刃(ちゅうすぐは)が多く、乱れ刃よりも地沸がよく付き、精美に見えるのが特徴です。
津田越前守助広の銘
はじめ、「摂州住藤原助広」と銘(めい)を切りましたが、受領後は「越前守源助広」や「越前守藤原助広」、「越前守助広」と切り、青山宗俊に召し抱えられてからは、姓である津田を入れた「津田越前守助広」と切るようになりました。
なかでも、津田越前守助広と切られた銘は、楷書体銘の「角津田」(かくつだ)と草書銘の「丸津田」(まるつだ)の2種類に分けられます。津田越前守助広と切りはじめた当初は角津田を用いていましたが、1674年(延宝2年)、青山宗俊の家臣であった「田塩保良」(たしおやすよし)により「近衛流」(このえりゅう)で書いた草書銘の見本を与えられたことで、丸津田に改めました。この丸津田を切ったのちの作刀に傑作が多いとされ、最も高い評価を得ています。

角津田

丸津田
刀剣ワールドが所蔵する津田助広の日本刀
脇差 銘 津田越前守助広 延宝五年二月日

大坂焼き出し
「脇差 銘 津田越前守助広 延宝五年二月日」は、1677年(延宝5年)、津田越前守助広40歳頃の作品です。
技術的に円熟した丸津田時代の作品で、匂(におい)深く、粒が揃った沸のよく付いた、美しい濤瀾乱刃の刃文が焼かれています。
焼き刃ははじめ、直刃調のゆったりした刃文が焼かれ、次第に乱れが高くなっていく「大坂焼き出し」の特徴が現れた物。
大筋違(おおすじかい:鑢目[やすりめ:滑り止めのために茎に施された文様]の一種で、刃の方から棟[むね]の方へ角度をかなり下げたもの)の化粧鑢(けしょうやすり:装飾の目的で施された鑢目のこと)も丁寧に施され、地刃共に明るく冴えた、実力が遺憾なく発揮された1振です。
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