五箇伝のひとつ 大和伝とは/ホームメイト
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日本全国には、大きく分けて5つの主要刀剣生産地があったとされ、各地域で発達した作刀の伝法は、「五箇伝」(ごかでん)と呼ばれています。そのうち、大阪のすぐ隣に位置する現在の奈良県、すなわち大和国に伝わっていた「大和伝」(やまとでん)は、平安時代前期以降に誕生した、日本最古と言われる伝法です。大和伝が完成し、発展した背景はどのようなところにあったのか、その歴史を辿りつつ、同伝の作刀に共通する特徴について、①「姿」(すがた)、②「地鉄」(じがね)、③「刃文」(はもん)の3つの部位に分けて詳しく説明します。
大和伝の歴史
都の移り変わりに見る大和伝が辿った道のり
日本の歴史において大和地方は、日本で初となる王権、いわゆる「ヤマト王権」(別称:大和朝廷)が樹立した地域です。大陸から新しい文化がいち早く入って来ていた同地方では、鍛冶の進んだ技術も発達しており、初代天皇「神武天皇」(じんむてんのう)が即位されて以降、皇室のお抱えとなった大和地方の刀匠達が長きに亘り、作刀に励んでいました。

元明天皇
そんななか、710年(和銅3年)に43代「元明天皇」(げんめいてんのう)が「平城京」(へいじょうきょう)へ都を移します。
もともと紀元前660年(神武天皇元年)頃から「大化の改新」がおこった645年(大化元年)前後を指す「上古」(じょうこ)時代、天皇が御代替わり(みよがわり)されるたびに、皇都は別の場所へ移されていました。
その背景は、「死は汚らわしいもの」としていた古代思想にあったのです。そのため、皇都を一定の場所に長い間留まらせておく概念はありませんでした。ところが平城京は、7代70余年もの間、皇都として、政治や文化などの中心地となったのです。「奈良時代」と称するこの時代には、仏教の興隆により、数多くの大寺院が建設されていました。
しかし、794年(延暦13年)に50代「桓武天皇」(かんむてんのう)により、現在の京都市にあたる地域に「平安京」として遷都されることに。すなわち、あらゆる物事の中心地が、奈良から京都に移されることになったのです。
そのなかで奈良は、仏教の地として「南都」(なんと)と呼ばれるようになりましたが、「都」としての機能を失った奈良の地は、衰退の一途を辿ります。これに伴って大和鍛冶は注文主を失っただけでなく、それまであった朝廷からの補助金も停止。大和鍛冶の作刀法は置き去りとなってしまい、鍛刀においても、その中心が京都へ移ることになったのです。
大和伝再興の経緯とは
大和伝による作刀法は、このまま衰えていくと思われましたが、平安時代後期に入ると状況が一変。皇室と姻戚関係を結んで「摂関政治」(せっかんせいじ)を行い、実権を握っていた「藤原氏」により、仏教の振興政策が実施されます。そうした中で、大和国にあった寺院が勢力を盛り返し、全国の諸寺院、及び仏教の本山のような存在となったのです。

東大寺
このようなことが背景となって、僧兵達が強大な武力集団として台頭します。そのため、僧兵が合戦で用いる刀剣が必要となり、作刀の需要が増加したのです。
そして、「東大寺」(とうだいじ:現在の奈良県奈良市)の子院(しいん:本寺に属する寺院のこと)である「千手院」(せんじゅいん)のお抱え鍛冶となった「千手院派」(せんじゅいんは)を筆頭に、大和国全域の大寺院に大和鍛冶が従属。その御用を務め、僧兵のための刀を多数作刀していました。
鎌倉時代末期以降の大和鍛冶は、新興宗教がにわかに興隆し、武家制度の確立などにより、「運命共同体」とも言える寺院との密接な関係を維持することが、徐々に難しくなっていきます。さらには室町時代中期を過ぎると、大和鍛冶の多くが、美濃国(現在の岐阜県南部)や北陸などの在地豪族を頼って諸国へ移住。こうして大和伝の刀工は、消滅することになったのです。
大和伝の特徴とは
大和伝の最も大きな特徴は、在銘作がほとんど見られないこと。前述した通り、大和鍛冶は寺院に召し抱えられていました。そのため大和鍛冶が手掛けた作刀は、僧兵が実戦で用いるのみで売り物ではなかったことから、銘(めい)を切る必要がなかったのです。
また当時は、銘が施された刀を寺院に納めることは失礼にあたるとされていたため、大和伝の刀は無銘(むめい)の「極め物」(きわめもの)がほとんどでした。例えば、「重要文化財」に指定されている太刀「獅子王」(ししおう)も無銘ですが、その作風に大和伝の特徴が示されており、同伝による刀と極められているのです。
加えて大和伝の作風は、僧兵と在地領主などの間で繰り広げられた、激しい合戦に耐え得るだけの強靭さも特徴のひとつ。実用性を重視していた大和伝による作刀は、装飾性も極力削ぎ落とされているため、外観は地味で素朴な物でした。しかしその分、力強い印象を受ける作風となっていたのです。
大和伝による刀剣の姿
大和鍛冶は、あまり流行りに左右されず、代々伝えられた鍛刀法をしっかりと守って作刀していました。また、前述したように実用本位であったため、大和伝による刀剣は、品格のある美しさが必要以上に示されていたり、豪壮であったりするなど、極端な印象となる姿にはなっていません。

中反り(輪反り)
大和伝の姿は基本的に、長寸で磨上げ(すりあげ)られた物が多く見られます。その「反り」(そり)は、刀身(とうしん)の中央付近で深く湾曲する「中反り」(なかぞり:別称・輪反り)であるのが特徴。
このような反りが付いていることにより、大和伝の刀剣は、地味でありながらも堂々とした、雄大な姿になっているのです。
さらには、合戦の場ですぐに曲がることなどがないように、「重ね」(かさね:刀身全体の厚さ)を厚くすることで頑丈な造りにしていることも、大和伝の姿における大きな特徴のひとつ。しかし、重ねを厚くすると、刀身の重量が増加することになってしまいます。これは、戦闘中に上手く刀を扱えない原因になってしまうため、刀身において最も厚みのある「鎬」(しのぎ:別称[鎬筋])を薄くすることで軽量化を図ったのです。鎬が薄いために鎬が高くなり、これもまた、大和伝による刀剣に多く見られる特徴だと言えます。

重ね

鎬(鎬筋)
大和伝による刀剣の地鉄

柾目肌
大和伝の地鉄は「柾目鍛えの総本家」と評されるほど、必ず地肌のどこかに「柾目肌」(まさめはだ)が交じっています。
柾目肌は、作刀工程のひとつである「折り返し鍛錬」の際に、地鉄を一方向にだけ折り返すことによって作られる、平行な方向に重なった地肌の文様のこと。
大和鍛冶は最終的に全国へ移り住んだため、例え無銘の刀であっても、その地鉄に板目肌(いためはだ)が現れていれば、大和伝の系譜を汲んだ刀工が作刀したと判断しても、間違えることはほとんどありません。また大和伝による地鉄は、「小板目肌」(こいためはだ)に柾が流れ、「地沸」(じにえ)が付く物も多くあります。この地沸が厚く付いていることで、地肌が白く輝くように見えるのも、大和伝の地鉄における特徴のひとつです。

小板目肌

地沸
大和伝による刀剣の刃文
大和伝の刃文は、「中沸本位」(ちゅうにえほんい)の「中直刃」(ちゅうすぐは)、もしくは「直刃ほつれ」(すぐはほつれ)を基調としています。中直刃はその名の通り、直線的な刃文である「直刃」(すぐは)の中でも焼幅(やきはば)が中程度の広さになっており、「細直刃」(ほそすぐは)や「広直刃」(ひろすぐは)に比べると、強度が高くなる利点があるのが特徴。

直刃ほつれ

中沸本位
また、直刃ほつれは直刃の「刃縁」(はぶち)付近に現れ、板目肌などの鍛え目に調和させるかのごとく、刃先、及び地に向かって生じた沸(にえ)や「匂」(におい)が、細く連なっている文様のことを指します。直刃ほつれは、いわゆる「刃中の働き」(はちゅうのはたらき)のひとつです。この他にも大和伝の刃文には、「喰違刃」(くいちがいば)や「二重刃」(にじゅうば)、さらには「打除け」(うちのけ)といった多種多様な働きが、柾目肌などの地肌に沿って縦に現れます。
喰違刃
二重刃
打除け
加えて大和伝の刃文は、直刃に植物の実である「丁子」(ちょうじ)を連ねたような文様の「小丁子」(こちょうじ)や「互の目」(ぐのめ)が交じり、刀身の裏表で刃文が揃っているところが、他の五箇伝(ごかでん)にはあまり見られない特筆すべきポイントです。

帽子
また、刃文に付いている沸は、上部に行けば行くほど強くなる傾向があります。
そのため、「鋒/切先」(きっさき)に施される刃文の「帽子」(ぼうし)は、焼刃(やきば)の先端に返りがなく、刃文が棟(むね)部へ向けて焼かれた「焼詰帽子」(やきづめぼうし)や、砂をほうきで掃いたときのように、かすんだ感じとなる「掃掛け帽子」(はきかけぼうし)、燃える炎のような形状の「火焔帽子」(かえんぼうし)となっており、それらの返りが浅いところも、大和伝における刃文の大きな特徴です。
焼詰帽子
掃掛け帽子
火焔帽子
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